私は特定の宗教を持たず、そして無神論者でもありません。
誰かが、何かが神なら、私も神の一部。私がそうなら、みんな神さま。みんな神聖さを持っていると思っています。
そんな私でも、旅先で古い教会や神社仏閣を訪れるのが好きです。今日、宗教も色々ありますが、建物やモノには罪はありません。
こうした建物は、当時の技術の結晶です。
ヨーロッパの大聖堂は何百年とかけて作り上げたものが少なくありません。
そこに入れば建物の大きさに関係なく、一様に静かな時間となる。
長年、人々が祈ってきたその気がその建物の構造の一部となっているかのよう。
大理石の象嵌が施された床、タイルで彩られた壁、細密な彫刻、ステンドグラス、釘を使用しない木組みの構造。天に突き抜けるかのような塔。
どうやって創ったのか、どんな想いがあったのか。
木に寄り添うかのように、時間の粒子が満ちている活きた古い建物と一体となるような時間が好きなのです。
人が何かを信じる力で生み出した美しい建築物。
美しさ故に、人々は集まり、永続を願い、大切にしてきた。
美しさは私たちの本質にとても近いのだと思う。
有名なフランスのモンサンミッシェルは、今ではあの壮大さを見せているけれど、最初は小さな祠のような教会でした。
そこに、時代と宗派の遍歴と技術の発展と共に、どんどんと継ぎ足されて大きくなっていったのです。
その最初は、内陸の教会の僧侶が見た夢だったとか。
何年も時代を得て形を変えても、当初の形は見えないけれど、奥深くにある。そして、僧侶の見た夢と想いは全体に命を与え、漂う本質として残っている。
人類の歴史は宗教と共にあった。政治も経済も戦争も、宗教を持っている。
どんな宗教でも、その祖は同じことを、命や魂の真実を伝えようとしていた。
自分の中の真実。
それを口に出し、言葉にすれば哲学になる。
哲学は教義となり、
教義は論争となって分裂し
戦いとなっていく。
または、哲学を自分の真実と受け止め、内面に平穏を見出し
哲学を現実化していく。
全てが本質から派生するなら、平和も戦争も、本質は全てを含んでいる。
何かを否定するなら、自分自身の何かを否定している。
自分の中の戦いに気付かなくては終わりにすることが出来ない。
本質は考えない。
無意識は考えない。
神は考えない。
ただ在る。
いま、なんのために、何をどう選ぶかだ。
現存するあれらの中には、本質がある。
だから純粋に美しい。
何かを信じるということはとても美しい。
その美しいと感じる気持ちが私はとても嬉しいのかもしれません。
愛と感謝を込めて