筍、蕨、蕗。

旬の野菜を見つけては、せっせと下ごしらえする時間がとても好きです。

 

春に限らず、これから梅干し、杏漬け、栗の渋皮煮、柿酢、味噌、味醂と一年通して仕込んでいきます。

料理が好きかと言えばそうでもない。

毎日出来るかと言われると、したくない。

 

ただ季節と共にある豊かさを感じていたいのかもしれません。

 

えぐみがあってそのままではとても食べられない食べ物も、ひと手間かけることで大変なごちそうになります。

捕食されないようにえぐみを出している植物、そのえぐみをなんとか摂ってまで食べようとする人間。

最後は小さきものが大きなものの力になろうとするかのように、美味しさを分けてくれる。

 

ありがたいです。

 

実家では蕗の薹、蕗、タラの芽、梅、山椒、むかご、などがあり、母の趣味の畑では年中お野菜がとれています。

私もそんな生活に近々戻るつもりです。

 

 

お金というのは確かに大変便利なものです。しかしお金=豊かさ、ではありませんね。

 

労働の対価といわれますが、働くことの報酬がお金なら、なんとも寂しいことです。

 

誰かの為、何かの為に、ただお金を稼ぐ。

お金のために働いている。だとしたら、その前提には「不足」があります。

その不足が現実化するから、働いても働いても、足りない。

 

世の中は前提が実現していきます。

 

私たちは少なくとも、住む場所があり、衣服があり、今日明日の食べ物くらいはある。

モノに溢れすぎた豊かすぎる国にいて、反比例する心の貧しさ。

 

働く、仕事。

自分の出来ることで誰かのお役に立てる。その喜びが対価だとおもうのです。

 

自分自身の喜び。安心。

在ることへの満たされる気持ち。

 

自分自身が満たされる、その豊かさによって、必要なものが循環する。

お金、場所、人、モノ、出来事。

 

それがあるなら、何を不足に思うことがあるのだろうか。

 

あるとするなら、より自分らしい環境を求めて準備をする。

 

そんな喜びと希望の中で生きて行っていいのだと思う。

 

お金を求めるだけの労働。

喜びと共に豊かさの循環のなかにあること。

 

これからの生き方、考えてみるときではないでしょうか。