時折、大豆を煮ます。
水に一晩漬け置き、灰汁を取りながら一時間ほど煮ると柔らかく、そのままでも豆の甘さを感じてくる。
ここからやっと料理となる。
料理をするなら煮豆を買えば簡単ですが、料理のためにというよりも、ただこんな下ごしらえの時間が好きなのです。
大豆に限らず、筍、ふき、蕨、梅干し。。。
そんな手仕事。
食べ物は、植物や動物。本来決して人に食べてもらうことを目的として成長していない。
捕食されないよう匂いを発したり、固い殻をもったり、苦みを出したりと自分の種の保存のために工夫をこらしている。
そのままではとても食べられないものを、私たちはあの手この手で自分たちの口にあうように手を加え時間をかける。
植物や動物たちとの攻防のようです。
大豆は大豆として、人参は人参として、牛は牛として種を残して行きたかったはず。
捕獲され、抗い、叶わないと思ったとき、観念し自分の命をより大きなものの力となるようにと、美味しさを出してくれる。
下ごしらえをしていると、そんなことを考えます。
だからやっぱり手間暇かけたい。
そのふっと変わる瞬間をもっと上手に見届けたい。
そして思うのです。
モノが丁度良く変化をしていく手仕事の時間のように、私たちもそれぞれの丁度良い時間の中で、葛藤したり、観念したり、気付いたり、納得しながら変化していく。それでいいのだと。
小さなものは自分より大きなものの力になろうとする。
私たちはいつか自分たちよりも大きな存在に出逢うのだろうか。
そのとき、私たちは今まで食べてきた植物や動物たちのように最後は融合していけたら、それもまた永遠かもしれない。
いつも読んでくださってありがとうございます。