近年、人間関係が希薄になったと思う方は決して少なくないかと。

 

夫婦、家族との関係、友人との付き合い、いづれを見ても今までの定型を越えて、個としての在り方を重視してきているように感じます。

 

それは311の直後、絆という言葉があちこちで聞こえ、人とのつながりを大切にしようという動きが明確にあったにも拘わらず、よりいっそう個を尊重する時代へと突入していったように思えるのです。

 

生きて来た時の流れを想えば、人としてとても寂しい気持ちもありますが、それはそれとして、この流れが抗うことの出来ない自然の流れであるとするなら、私はここでもう少し人間らしさから離れたところから俯瞰して観てみたい。

 

 

カウンセリングという生き方を考える場においても、精神性という肉体を越えた次元への考えは今や不可欠であると、私は考えます。制限を超えるごとに人生の選択肢は増えていきます。

 

 

魂というものがあるならば、肉体を持って様々な体験をしその学びを叡知として魂に刻みこんでいくという。

 

 

人は肉体に魂を宿し、一人で生まれ、一人で去っていく。

 

 

魂は、血の繋がりや気持ちでの関係性などのない、個の世界であろう。

 

 

私たちは、学び経験したいことを人生の中で繰り返しながら消化し、進化してきた。

 

 

今、もしかしたら人間関係が希薄になったのは、肉体があっての課題も終えようとしている現れなのではないか。

 

 

奥深くにあった魂本来の自由さが、沢山の縛りを解かれ、尊厳と共に表面に現れてきた。

 

 

そう思えてならない。

 

 

そうであるなら、私たちは着実に魂としての進化をしているのではないか。

 

 

そして、その先はどうなるのか。

 

 

肉体のない、精神性だけの、魂として生きていく。

 

 

それが一体どういうことなのか。

 

 

勿論、それが事実かは分からない。分からないから考え、想像する。
幼いころから夢想家だった私は、遠く遠く俯瞰し空想してみることが好きなのです。空想の世界は制限がない。制限の世界が私の喜びの全てだった。今でもそう。

 

 

肉体を持っての学びが終えるとき、肉体はもう私たちには必要なくなる。

 

 

それはもう遠い未来ではないかもしれない。

 

 

そのとき、在るものが無くなる。

 

人間が人として守りたいものと、魂としての成長はまったく逆である気がする。

 

 

私は生まれ変わりを望まない。何故なら、繰り返しはもう要らない。
1+1からまた学びなおすなんてもういやだ。

 

私を肉体にとどめておく理由がなくなった時、魂は自由になる。肉体や感情、モノ、出来事、その舞台となるこの美しい地球は存在意義を、私の意識から失い消滅する。

 

そのとき私は時間、空間、を超越した場と存在となり、それを私は意識を持ったまま、私としてそれを経験したい。

 

 

今、それが出来る気がしている。何故なら想像できるから。

 

 

私は永遠に生きる可能性を模索している。

 

 

私たちはすでに永遠に生きている。

 

 

だからこそ、私は限りあるこの肉体での一日一日を大切に、愛おしく過ごしていきたい。

 

 

いつかその時が来た時に、思い残すことなく、次のステージに喜びをもって行けるように。

 

 

そして私は出来るだけ最後まで、この美しい世界を見届けていたいと思う。

 

 

またしてもつらつらとしたコラムを残し新年を迎えたいと思います。

 

皆様、より良い一日をお過ごし下さい。

 

愛と感謝を込めて