雑念とは、気を散らすさまざまの思い、いろいろな余計な考え。

 

 

過去のこと、未来のこと。

 

繰り返しの思考は、周波数を持ち、同じ周波数の原子を引き寄せ、物質化していく。

 

 

雑念は悩みの種となり、不安が発芽する。

 

 

全ては頭の中の幻から始まっていく。

 

 

 

不安。

 

それらはもうすでに終わっていて、

 

そしてまだ起っていないこと。

 

 

 

それも、頭の中の幻なら、幻のうちに消したい。

 

 

 

『無』そのものになることはなかなか出来そうな気がしませんが、お坊さんによると、無の状態には日常的になっているそうです。

 

 

それは、何か物事に集中しているとき。

 

 

読書、音楽、運動、など趣味に没頭している時間。

 

そのときに雑念は湧いていない。ただ連続する『今』を生きている。

 

そんな時間は不安に囚われていなかった。

 

不安が湧いてくる時間は、本当は自分の好きなことをしてもいい時間だった。

 

 

心は、好きなことをしている喜び、自分を大切にしている安心で満たされます。

 

希望、喜びは、雑念の奥底に必ずあるのものです。

 

 

もしかしたら、不安が湧いているときは、そんな時間を増やしてもいい状況にすでになっているのかもしれません。

 

 

 

私自身、今まで『無』をみたことはあっても、『無』そのものには未だならず(笑)

 

意識と共に無になることは、矛盾するのだろうか・・・

 

 

何事もやってみないと、なってみないと分かりませんね。

 

それが未知への探求なのでしょう。

 

 

自分に集中する『無の状態』の先には、何が広がっているのだろう。先人たちが出来たなら、きっと私にも出来る。

 

そう思い、今日も雑念に埋もれ、振り払い、過ごすのです。

 

 

 

愛と感謝を込めて