度々書いていますが、私たちの本質は善です。

そして、悪は善と対局ではなく、善に含まれるただの状態だと私は考えている。

 

今、誰かが悪の姿であっても、それはその人は今そうしていないと居られない状態なのだ。

誰もが、自らの善性に気づき、自らの悪を乗り越え、善性を育て進化させていく旅の途中なのだから。

 

 

しかしながら、大切な何かを傷つけ奪った相手をゆるすことは、とても難しいことだ。

 

自分自身の行いでないのに、自分自身が傷ついてしまった。

なぜそんな相手をゆるさなくてはいけないんだ!

ゆるしても大切なものは返ってこない!

同じ苦しみを味わえ!

恨んで恨んで、自分の苦しみをその相手に背負わせたくなる。

 

今の生き辛さを誰かのせいにし被害者のまま生きていくことは、生きる目的がただただ死に向かうだけならば、とても楽な選択だ。

 

しかし、私たちの真の目的が、自らの善性の成長ならば、どうだろうか。

全てが自分自身の成長と進化のために自分自身が課した問題だとしたら。

相手のせいにしているだけで本質的な解決になるのだろうか。

本質的な問題とは、常に、自分自身の中にある。

 

相手の行為をゆるすとは、相手の善性を信じ、相手を責めることを止め、相手との関係性を終わらせ、自分の中にある気持ちを自分自身で消化し昇華していく作業をしていく、という宣言のように思える。

 

誰かの行為によって起こった悲劇であっても、それによって引き起こされた悪、怒り、悲しみ、後悔、自責、様々な気持ちを自分自身の責任として直視し、これからの自分のために、たった一人、乗り越えていく。

これはとても辛いこと。理不尽なことのように思えるかもしれない。

その選択は、とても勇気のいることであり、おこがましいが崇高なことだと思う。

 

それは、大きな大きなスパンで見れば、より善の行いなのだから。

 

 

罪を犯した方も、その罪をゆるされたとき、人の善に触れ、自らの善性に気が付いていくのならば、そのときから、本当の苦しい贖罪が始まる。

それは罪の大小や、法律上の刑罰を越えて、本人が自分の責任として背負い続け、自らの悪を直視しそれと立ち向かい克服し、善性を育てていくことだと私は思う。

しかし、それは本人が決めることであり、ゆるした側にはもうとっくに関係のないことだ。

 

自分の悪を知ったとき、誰も目をそむけたくなる。

それでも、それは自分のより善性を育てていくために今、脱ぎ捨てるべき過去の自分である。

 

様々な出来事から、自分自身がどう感じ、どう思ったか。

問題はそれだけなのだ。