先日、世界で初めて撮影に成功したブラックホールの写真が公開されました。
在るかどうかわからないが、在ると仮定し研究し実証しようとしてきた。その結果です。
アインシュタインは宇宙のすべての解を一つの理論で導き出せる統一理論の発見を目指しながら、量子力学の出現により一線から遠のき道半ばに亡くなった。その後量子力学だけではブラックホールは解明できないとわかり、一般相対性理論も含む統一理論の研究がなされている。先端は超ひも理論だがそれはまだ仮定の域をでず、哲学の範囲であるらしい。
私達の世界は実在として解明されているものと、こういうものが在るとしたら、という仮定がある。
一つの仮定が解明されるたびに今までの常識も変わってくる。在るものは在る、事実は変わらないが認識が変わる。
私はこのブログでも時折、魂という言葉を使う。
魂が在るのか無いのか分からない。分からない曖昧なことを在ると断言はできない。
しかし無いとも言い切れない。
臨死体験をした人も幽体離脱をした人もいると聞く。
それは一般的に、未だ本人だけの特殊体験の域を越えず、万人が絶対的に理解できる証明と実験が出来ていないだけである。
内的世界の統一理論も未だ旅の途中。全てにおいて解はない。
この世の中にたった一つ真実があるのなら、自分自身がどう感じ、どう思ったかだと私は思っている。
それが自分にとって快なのか不快なのか、それだけは自分にとって真実であり、快であるなら進むべき解である。
魂が在るとしたら、と純粋に考える。
身体、感情、思考のほかにそれ以外の、生きているものに共通してあるものがあるならば、それはどういうものだろう。
死を迎えた先にも、私たちの行く先があるのなら、それはどんなところで、どんな旅なのだろう。
肉体を離れるってどんなことだろう。時間は?空間は?場所は?
何のためにここに生まれてきたんだろう。
生きるってなんだろう。
自分ってなんだろう。
死を考えることは今をどう生きるかに繋がる。
その先を考えることは、より今を生きる選択肢が広がる。
死んだら終わる刹那の人生なのか、それとも、過去から学び次へと生かそうとする永劫の人生なのか。
自分にとって快なのはどちらだろう。
私が考える治癒とは、肉体や心の症状をなくすことではなく、生き方を治していくことだ。
そのためにも未知を開拓し可能性と選択肢を広げていく。
人の進化は、物理学のように、受け入れ難きを受け入れ、統合し、さらに新しいものと対峙し、融合していく。その繰り返し。
いつかすべてが解明されるだろう。
そのときまで待つのだろうか。それとも、今から自分を進化の道へいざなうのか。
それも人生の選択、自由だ。
在ると仮定したときからそれらが創造され、意志の強さ、確信と探求によって具現化するのだと、また一つの仮定を私は持っている。
きっと答えは付いてくる。今までもそうだったように。
私には時折こんなことがある。
感情の波も思考も一切ない。
静かで何もないけど全てが在る場。
迷いもなく、ただそこに在る。
感情でも思考でもないその自分の存在を体験している。
それをなんと呼んでいいのかわからないが確かに在る。
私にあるならだれにでもあると、それもまた私は仮定している。