家族が、友人が、恋人が、伴侶が

「死にたい」と言っている。

 

それを聴いて、とても動揺してしまったのだとしたら。

 

あなたはその人を、とても大切だと思っている、愛しているからこそ。

 

 

大切にしてきたのに、愛してきたのに、どうしてそんなことを言うの。

 

気持ちが分からない。

 

私が悪かったのだろか。

 

 

そう自分を責めたり後悔したり。

繋がっている、分かり合えていると思っていた気持ちがそうでなかった不安。

そんな不快な気持ちが次々沸き起こってくる。

 

 

その不安に耐えられず、なんとか本人を立ち直らせたくて、こうすればいいのでは、ああすればいいのではないか、と説得したくなる。

 

しかし、冷静に考えてほしい。それは一体だれのためだろう。

 

 

自分自身の不快な気持ち、不安から逃れたい。

もちろん、それは悪いことではないが、苦しんでいる本人のためではないことが判る。

 

 

誰かの「死にたい」という言葉で、自分自身も苦しいのなら、そこには二つの問題がある。

 

 

「死にたい」と思うほどに生きることが辛い、生きていきたいけどどうやって生きていったらいいのかが分からない。というご本人の問題。

 

 

大切な人に「死にたい」と言われ、自分のこれまでの愛を疑い、自分を信じられなくなってしまった自分自身の問題。

 

 

「死にたい」という言葉には強烈なイメージがあり、一瞬で相手を不安にさせてしまう。

 

本人は、そんな不安を自分が抱えていることを一番わかってほしい人にわかってほしいのだと、私は思う。

 

この言葉を受け、動揺するならば、ご本人の一番わかってほしい気持ちを受け取ったということだ。気持ちを受け取れるということは、まごうことなく愛しているということだ。

 

あなたは間違っていなかった。

 

ただ、こちらがしたい愛し方と、本人がしてほしい愛し方が、ほんの少し違うだけだった。

 

愛されていることがわかっていたから、今まで本当の気持ちが言えなかった。我慢して飲み込んでしまった。自分で自分の気持ちを誤魔化してうそをつくことが当たり前になってしまった。そうしているうちに、自分でも自分の気持ちがわからなくなってしまい困っている。

 

 

生き方が分からない不安。

 

そんな気持ちをわかってほしい。

 

 

何が嫌いで、何が好きで、何をしたくて、何をしたくなかったのか。

これから自分がどう生きていくのか。

 

人生は、本人が考えること。

 

 

今、じっくりと小さくなって自分に集中し考える。

痛み、苦しみとは、膿を出すような、そんな時なのだ。

 

本人がそれを心置きなくできるように、安心して熟考できる安全な環境を実現し、力を信じ見守ることが周囲にできる最善だと私は思う。

 

きっと通り抜けられるだろう。あなたが大切にしてきた、愛してきた人だから。